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【ATエクスプレス】謎の遺跡紀行『日本中央の碑』その十三【 みどころ!観光情報】

投稿日:2007年02月02日 11:32 /更新日:2007年02月02日 11:47
教えて!三厳先生!!

謎の遺跡紀行『日本中央の碑』(その十三)

 当遺跡の課題である『誰が、何の目的でこのようなことを成したか』ということを考えてみたい。
 この遺跡が「つぼのいしぶみ」として枕詞的に都人に取り入れられ、沢山の歌に詠まれたということから、二つのことが考えられる。
 一つは、『日本中央』と刻んだ石碑に対して、都人が、哀切さ、無常感、はかなさ、もののあわれという感情を抱かずにはおれない何かがあったからだと思う。
 それは、かつて都において栄華栄誉を極めた物部の末裔が、今は化外の地と呼ばれた蝦夷地まで落ち延び住み着いている。このことに「世のはかなさ」「もののあわれ」を感じたからこそ歌になった。
 そして、物部の末裔であることを匂わすために、「つぼ」と「都母」と当て字で詠み、かつて「都を造った氏族が住んでいる土地である」を意味するような歌も創られた。
 もう一つは、遺跡を刻んだ人物は話題となるほどの著名な人物か、又は、官位の高い人物ということである。
 伝説どおり、坂上田村麻呂征夷大将軍であれば話では簡単である。しかし、正史では青森県まで行っていないことになっている。
 ただ、日本後紀には延暦20年(801年)に『遠く閉伊村を極め』とある。閉伊地方は岩手県北で青森県と接する地方であるから、壺村まで足を伸ばした可能性も残されており、全く否定はできない。  <つづく>