教えて!三厳先生!!
謎の遺跡紀行『日本中央の碑』(その十二)
『汚れのないなだらかな文字から見て、スケールの大きなおおらかな人物が書いた物に間違いない。南方も北方もない大きな繋がりを願う心が感じられ、僕の旅はこの石碑に出会っただけで十分だ。』
この言葉は、本県(青森県)出身の版画家・棟方志功画伯が、『奥海道棟方版画』制作のため、昭和48年4月に上北郡東北町の「日本中央の碑」を訪れたときに語ったものである。
伝説では、「坂上田村麻呂征夷大将軍が蝦夷征伐の折、都母村(現在の東北町、六戸町、天間林村あたり)まで来て、そこにあった大きな石に弓の筈で日本中央と書いた」と今に伝わっている。
このことが、中央に知れ渡り有名となり、数々の歌人に詠まれ、20首以上が今に残されている。
この「日本中央の碑」が発見された近くに『千曳神社』があり、その神社に語り継がれている伝説がある。
「神代の時に石の札を立て、その石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追放せし事なるに、悪鬼の来りてその石を土中へ深く隠せしを、神々の集まり探し給ひし所こそ石文村にて、その石を立てし所は坪村にて有しを、坂上田村麻呂将軍来り給ひ、鬼を残らず殺し給ふ故に、この石は無用とてこの所を7尺掘って埋め給ひ、その上に社を建てた。その石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引きしを以て千曳大明神と申すなり。」
なお、現在の千曳神社の祠は、日光東照宮の建築で有名な左甚五郎の手になるものであると伝えられている。 <つづく>
謎の遺跡紀行『日本中央の碑』(その十二)
『汚れのないなだらかな文字から見て、スケールの大きなおおらかな人物が書いた物に間違いない。南方も北方もない大きな繋がりを願う心が感じられ、僕の旅はこの石碑に出会っただけで十分だ。』
この言葉は、本県(青森県)出身の版画家・棟方志功画伯が、『奥海道棟方版画』制作のため、昭和48年4月に上北郡東北町の「日本中央の碑」を訪れたときに語ったものである。
伝説では、「坂上田村麻呂征夷大将軍が蝦夷征伐の折、都母村(現在の東北町、六戸町、天間林村あたり)まで来て、そこにあった大きな石に弓の筈で日本中央と書いた」と今に伝わっている。
このことが、中央に知れ渡り有名となり、数々の歌人に詠まれ、20首以上が今に残されている。
この「日本中央の碑」が発見された近くに『千曳神社』があり、その神社に語り継がれている伝説がある。
「神代の時に石の札を立て、その石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追放せし事なるに、悪鬼の来りてその石を土中へ深く隠せしを、神々の集まり探し給ひし所こそ石文村にて、その石を立てし所は坪村にて有しを、坂上田村麻呂将軍来り給ひ、鬼を残らず殺し給ふ故に、この石は無用とてこの所を7尺掘って埋め給ひ、その上に社を建てた。その石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引きしを以て千曳大明神と申すなり。」
なお、現在の千曳神社の祠は、日光東照宮の建築で有名な左甚五郎の手になるものであると伝えられている。 <つづく>







