教えて!三厳先生!!
謎の遺跡紀行『日本中央の碑』(その十一)
昭和24年6月29日の地元新聞である東奥日報の記事には次のような内容で書かれている。
6月上旬に上北郡甲地村石文部落の川村種吉氏が同部落の雑木林から発見。ジャガ芋形で長さ5尺5寸、最大周囲7尺7寸の自然石で、ほぼ中央に『日本中央』の文字がかすかに見える。
◆東京文理大学教授・松本彦次郎氏のコメント
直ちに『壺の石碑』と断定できないが、書体も刻みも後年のものとは思えない。また、坂上田村麻呂は岩手県水沢市付近までしか来ていないことから、伝説に残るように田村麻呂が刻んだものではなく、浅虫あたりまで来た文屋綿麻呂と考える。
◆昭和24年8月6日の東奥日報の記事
県史跡調査の任にあたっている南津軽郡尾崎村の葛西賢造氏は「近代において、手を加えた偽作と断定」した。
◆昭和24年9月9日の東奥日報の記事
東北大学教授・吉田良一氏は上記の葛西説と反対の所見を発表。
日本中央の四文字は相当に古く近年のものではない。壺の石碑伝説の主人公として永い風雪を凌ぎ、歴史的価値に富む立派なものだ。
◆昭和25年6月1日の東奥日報の記事
文部省文化財保存課が調査を実施。結論出ず。
◆昭和25年6月14日雑誌「うとう第28号」の記事
東北大学教授・吉田良一氏が『壺の石文私考』を発表
仙台市の金石文研究家・菊池武一氏に対して、拓本により字体鑑定を依頼したところ、「室町時代以前のもの」と。また、中国文学専門の東北大学教授・小川環受氏の見解も同様であった。重要な文化財として保存する価値あり。
◆昭和25年9月27日の東奥日報の記事
横浜市の歴史家・中道等氏の鑑定
碑面に見える「日本中央」の外側にもう一つの「日本中央」の四文字がある。最初に外側の四文字が彫られ、摩耗しそうになったので、何者かがそれよりも一回り小さく彫ったものと思う。しかも、二回目のものさえも相当古い。石に彫りつけたものが摩耗するほどであるから、かなり時代を経たものであり、千年以上は経っていると考える。
その後、この論争がほとんどされず、真偽不明のまま現在に至っている。 <つづく>
謎の遺跡紀行『日本中央の碑』(その十一)
『壺のいしぶみ』発見!
昭和24年6月29日の地元新聞である東奥日報の記事には次のような内容で書かれている。
6月上旬に上北郡甲地村石文部落の川村種吉氏が同部落の雑木林から発見。ジャガ芋形で長さ5尺5寸、最大周囲7尺7寸の自然石で、ほぼ中央に『日本中央』の文字がかすかに見える。
◆東京文理大学教授・松本彦次郎氏のコメント
直ちに『壺の石碑』と断定できないが、書体も刻みも後年のものとは思えない。また、坂上田村麻呂は岩手県水沢市付近までしか来ていないことから、伝説に残るように田村麻呂が刻んだものではなく、浅虫あたりまで来た文屋綿麻呂と考える。
◆昭和24年8月6日の東奥日報の記事
県史跡調査の任にあたっている南津軽郡尾崎村の葛西賢造氏は「近代において、手を加えた偽作と断定」した。
◆昭和24年9月9日の東奥日報の記事
東北大学教授・吉田良一氏は上記の葛西説と反対の所見を発表。
日本中央の四文字は相当に古く近年のものではない。壺の石碑伝説の主人公として永い風雪を凌ぎ、歴史的価値に富む立派なものだ。
◆昭和25年6月1日の東奥日報の記事
文部省文化財保存課が調査を実施。結論出ず。
◆昭和25年6月14日雑誌「うとう第28号」の記事
東北大学教授・吉田良一氏が『壺の石文私考』を発表
仙台市の金石文研究家・菊池武一氏に対して、拓本により字体鑑定を依頼したところ、「室町時代以前のもの」と。また、中国文学専門の東北大学教授・小川環受氏の見解も同様であった。重要な文化財として保存する価値あり。
◆昭和25年9月27日の東奥日報の記事
横浜市の歴史家・中道等氏の鑑定
碑面に見える「日本中央」の外側にもう一つの「日本中央」の四文字がある。最初に外側の四文字が彫られ、摩耗しそうになったので、何者かがそれよりも一回り小さく彫ったものと思う。しかも、二回目のものさえも相当古い。石に彫りつけたものが摩耗するほどであるから、かなり時代を経たものであり、千年以上は経っていると考える。
その後、この論争がほとんどされず、真偽不明のまま現在に至っている。 <つづく>







